貧困魔境伝ヒヤパカ

やっと読んだ。

山野一の漫画だと、曖昧だが四丁目の夕日の中で、狂気の主人公が地下水?になんか落としながらサングラスかけてニヤニヤしつつ、家族に囲まれた幸せな日々を妄想しているシーンが好きだ。見せ方が美しいので。これこそ漫画の力なのか、名作といわれる所以を感じる。

ヒヤパカはつげ義春風の作品もあったりしたがやはり不条理ものが彼の十八番だなと思った。そしてガロ漫画が趣味だと安易に言わ無いほうがいいなと思った。

 

最近考えたこと、自己肯定感の委託について。

自分には、過去に傷つき、自己肯定感が無い自分を、他者に受け入れ、時に慰めてもらおうという不気味な下心が浮き上がった時がある。寒気がするので治したいが、なかなか難しい。

アダルトチルドレン毒親など、救いの言葉は世間で供給されているものの、これは自分の過去の分析材料であり、されど人生は続くのだ。ある人が辛い過去は辛かった反面、自分の人生で言い訳にしている部分がある、と書いていて正論だなあと感じた(傷ついた他者に押し付けてはならないが)

なんとか自己肯定感を得て真人間とならねばなと日々考えていたが、ここ最近辛いことが続いた時に、ダメな自分を肯定してくれる友人をみて、そういう頼り方もあるなと感じた。

何かに成功したりと自己肯定感を育む努力をすること、逆に今の自分を受け入れる努力をすること、ズボラでネガティブな私にはどちらも難しいが、自分を受け入れる友人の存在には救われる瞬間があり、私にとってこの方法は有効であると感じた(方法は人それぞれなので)。

私はやはり人の励まし方などいちいち人から学ば無いといけない。。。

「お前ばっかり一人で幸せになってるんじゃないよ」

「お前ばっかり一人で幸せになってるんじゃないよ」

何年も母にそう言われてきたし、今日も言われてしまった。

確かに私の母は不幸な人生を送っていて、それは今も進んでいる

私は裕福で、医学部に通わせてもらっていて、心の底から友人だと言える人もいるし、父には愛されていて、確かにとても今幸せなので、謝ることしかできなかった。

母を置いて幸せになり申し訳ないと思った時期もあったが、贖罪の仕方がわからなかった。そう思う時期は生きていること自体が罪なような気がして、ひたすら音も立てず、葬式もなく、誰にも迷惑を掛けずに消える方法を探していた。

精神的にも肉体的にも暴力を受けていた時は世界で自分が一番不幸だと思っていたが、世の中には不幸が溢れていて、そしてそれが身近であると知った時に、私はありきたりで、かつ軽症なケースだと悟った。

小学生の頃に、カウンセラーに親に竹刀で殴られると相談した時、でもあなたは一番不幸なわけじゃないと言われ憤りを感じたが、全くその通りに思う。

不条理に当たられたり、不可解な暴力はわりとありふれたことで、皆それにいろいろな術をもって耐え、やり過ごしていることに気づけたのは、すごく幸運なことで、自分の不幸に酔ってしまわなくて済んだ。

はて、どうすれば母を捨てずに自分のしたいことを自由にできるのだろう。

こんなにされても母を捨てられないのは、母を哀れんでいるからなのか。

今以上に私が幸せになってしまったら、母はもう私を愛してくれないのか。

母のなれなかった医者に私がなってしまったら、もはや私は憎しみの対象でしかなくなってしまいそうで少し辛い。

みんな幸せになればいいのに。